インタビュー

福岡の働く女性を応援して35年、誰もが可能性を発揮できる社会を創りたい


              男性と女性が平等に扱われない社会に愕然として。

村山さんといえば、長年にわたり「福岡の働く女性を応援してきた」というイメージが強いですね。
子どもの頃から何か「女性」を意識していたのでしょうか。どんなお子さんでしたか?

小さい頃、父の職場だった映画館の映写技師室で遊んだり、映画をよく観ました。頻繁に本やレコードを買ってきてくれる父だったので、クラシック音楽を聴きながら本をたくさん読みました。「アレキサンダー大王」「三銃士」「巌窟王」「アルセーヌ・ルパン」シリーズなど冒険ものに夢中になりました。ただ、物語の主人公は強くてたくましい男性が多く、自分をどう投影したらいいか分からなかったですね。中学になると「嵐が丘」や「ジェーン・エア」「風と共に去りぬ」など女性作家の作品も好きでした。女性に目覚めたのかな。

将来の夢は?

それが全くなくて。母には医者や教師をすすめられるけど、そんな気にはならず…。高校の入学式で、校長先生の言葉に衝撃を受けたのは鮮明に覚えています。「男子は世界に羽ばき、女子は学校の先生に」って。「えっ、女子は世界に羽ばたけないの!?」と違和感が残りました。考えてみると、そんな時代の空気の中で、あまり自分を出せなかったかもしれない。でも、大学では文学や歴史などについて幅広く議論できる環境があって、何だかホッとしました。

村山さんが就職されたのは男女雇用機会均等法が施行される前で、就職にも苦労されたとか。

民間企業は短大卒と高卒しか採用しないところがほとんどで、4大卒女子に門戸を開いている企業はごくわずかでした。それが当たり前だったので、おかしいとさえ当時は思っていませんでした。男子は名だたる企業に就職していくのに、大企業に入れない自分に人生を転げ落ちていくような感覚を覚えました。創業4年目の新しい化粧品会社で3年働いた後、退職。再就職できずにとりあえず3ヶ月契約の役所の臨時職員になり、そこで衝撃の体験をしたのです。1日4回職員全員のためのお茶くみが女性の臨時職員の仕事で、「日本社会は女性の能力を社会でこんなことに使っているのか」と体が震えました。「ここにはいられない」と、勤務初日にたまたま机の上にあったフリーペーパー「エルフ」に電話して「アルバイトはありませんか?」と聞き、編集部に転職しました。自分で営業して広告をとり、記事を書き、デザインまでしました。広告代理店の1事業部で編集部員は編集長以下全員嘱託職員。サークル活動の延長みたいな感じで楽しかったですよ。ちょうどバブルの頃で女子ばかりの非正規雇用女子編集部員は広告業界の方たちが舌を巻くほどの売上と利益をあげて、入社して3年たつ頃にはその事業部だけで広いオフィスを借りるほどになりました。その後全国に広がるフリーマガジンのビジネスモデルはここで私たちが編み出したように思います。新卒の頃、「他の会社の女性たちと話してみたい」と思っていたことが実現して、読者の働く女性とお茶くみ問題や恋愛や結婚観などを語り合いました。

好奇心旺盛で、いろいろな人と話すことがお好きだったのですね。

ずっと外の世界を知りたい、刺激がほしいと思っていました。30歳のとき、その編集部の大半のメンバーで新しい会社を設立して新雑誌を創刊。ナンバー2として、会社や仕事のことをいろいろ学ばせてもらいました。


              地域のメディアとして、身近な女性を応援したい。

1993年に「アヴァンティ」を創刊されました。

もっと自分らしくありたいと思い、独立して始めたのが情報誌「アヴァンティ」です。社員を5人採用し、私以外は全員未経験者。月刊誌を発行し始めると、ものすごいスピードで物事が回り始めるんです。「子どもの頃から憧れていた冒険って、こういうことだ!」と思いました。毎日いろんなことが起きて、トラブルも降りかかってくるけれど、「お、そう来るか」「こうしてみよう」とワクワクしながら過ごしていました。

オフィスや資金はどうされたのですか?

私のマンションのリビングをオフィスにして、バタバタと準備しました。資本金すらなかったので友人たちから借りました。1週間で300万円集めました。家庭教師の教え子や元彼まで。「女性は銀行借入ができない」とよく聞きますが、営業のプロでもライターのプロでもなくてずっと自信がなかったのに、すぐに借りることができました。元編集長という肩書きが効果があったようです。それがキャリアになんて思ってもいなかったけれど、「世の中に認められた」ように思えてうれしかったです。創刊3年目からやっとの思いで単年黒字になり、5年目に私のマンションから脱出し、念願のオフィスに引っ越して成長していきました。

「アヴァンティ」でやりたかったこととは?

「福岡の働く女性たちを揺り動かしたい」と思っていました。読者の女性たちは向上心ある女性たちが多かった。週に2、3日お稽古事に通う人も多く、勉強家なんです。でも、会社では女性は事務職しかいない。話を聞くと、みんな心にモヤモヤがあった。留学や就職で海外に脱出する女性もいました。結婚退職が当たり前の社会から少しずつ変化しようとする頃でした。しばらくすると、「自分を確立するまでは結婚したくない」と仕事や資格取得にがんばる女性たちも増えてきました。時代の変化、女性たちの意識の変化を肌で感じながら仕事するのはとても面白かった。そして、読者の女性たちに「女性だからとあきらめないで。あなたにも可能性がある。一歩前に出よう!」とメッセージを伝えたかったんです。

なるほど、伝えるための手段が「アヴァンティ」だと。

その通りです。情報誌をコアにして、福岡の女性たちとつながり、うねりを起こしたいと考えていました。具体的に決めたことは、大きく3つあります。1つは、少し先を行く地元で活躍する女性のインタビューを連載すること。当時、新聞や女性誌に活躍する女性の記事が時々掲載されていましたが、みんな東京の女性なんですね。「福岡にも、こんなかっこいい生き方働き方をしている女性がいるよ」と読者に知らせたかったんです。ロールモデルを発掘して紹介する、という今、男女共同参画行政がやるようなことを早くに始めていたと言えるのかもしれません。2つ目は働き方や恋愛、結婚など、そのときどきの旬の話題を毎号4ページ割いて特集する、それから「場を作る」ことです。

場を作るとは?

地域に根ざしたメディアとして、読者と顔の見える関係でありたいと思ったんです。情報を発信するだけでなく、講演やイベントなどを開催することで、読者は興味関心が合う人や講師など知り合えます。仕事って、自分のやっていることにどう価値を見出すかということだと思うのですが、「アヴァンティ」は地域に根ざしたメディアとして、身近な女性を励まし勇気づけ、つなげる役割があると思っていました。

確かにリアルに会える場を作れるのは、地域情報誌の強みですね。

自分よりちょっと先を行く先輩女性の話を聞く「トークライブ」は毎年、実行委員を募って開催しました。すると、実行委員には「会社で会議に出たことがない。こんな場で自分の意見を言ったのは初めて」という方もいました。会社のこと、自分の問題意識を語り合い、企画を進めてい行きました。福岡の女性が目覚めたり成長したりする機会にもなれたかなと思います。


              「あすばる」館長となり、女性と行政や経済界をつなぐ。

2010年から5年間、福岡県男女共同参画センター「あすばる」の館長を務められました。
女性起業家からの抜擢は珍しいと思うのですが、テーマを考えると村山さんにピッタリですね。

まさかのお声がけに驚きましたが、行政の立場から女性活躍に取り組めるなんて面白そうと喜んでお受けしました。それまで「女性がのびやかに能力を発揮できる社会に」とメディアや講演、経営者の会などで訴え続けてきて、こんなに日本が変わらないのは、政治や行政、企業トップへの働きかけが重要と痛感していたので、チャンスと捉えました。

5年の間にどんなことをされたのでしょう?

当時センターの利用者は60 代以上の女性が大半で、もっと広く知ってもらうためにホームページのリニューアルに着手。いろんな情報を発信し、セミナー受付もネットでできるようにすると、ページビューが飛躍的にアップ、6倍になったんですよ。働く女性や母親、起業家向けの講座、女性リーダー養成講座「いきいき塾」などを開き、それまでセンターの存在すら知らなかった人たちへの認知度が高まったと思います。ほかにも2012年に「女性活躍フォーラム〜トップが変われば職場が変わる、社会が変わる」と題して、経済界トップのパネルディスカッションなどで構成するイベントを、当時の九州経済産業局長と女性たちと企画しました。九州経済産業局と経済団体、3つの男女共同参画センターが連携して開催し、500人の経営者や管理職、女性たちが参加してくれました。あすばる職員が「こんなにたくさんの男性の企業関係者が集まる事業を、男女共同参画センターができるなんて」と感激していました。あすばるの事業だけでなく、福岡県内のあらゆるところから、講演に呼ばれ、毎年50本近い講演をしていました。

村山さんが館長になられて、多くの人にとってあすばるが身近な存在になったと聞きます。
功績は大きいですね。そして、アヴァンティに戻られました。

はい、2015年に館長を退任して、会社の代表に戻りました。お母さんもおばあちゃんもアヴァンティファンだという若い読者にもお会いして長く続けることの醍醐味を感じていました。一方、社員たちは疲れ果て、先が見えなくなり、資金繰りが悪化していました。これまでの路線からぶれることなく、読者コミュニティを強化する新たな仕組みも作ろうとしていた最中、来月の給料が払えないかも、という状況になり、2019年1月に破産しました。ご迷惑をおかけした債権者の皆さまには大変申し訳なく思っています。
ただ、すでに決まっていたイベントや進行中のパンフ制作、行政の委託事業は、社員たちとやり抜きました。最後のイベントでは、たくさんの読者やスタッフを前にご挨拶をして、感謝の気持ちを伝えました。創刊から25年と4か月、最高32万部を発行し、年間100を超えるイベントを企画運営することができたのは、愛すべき社員たち、クリエイターの皆さん、読者やクライアントの皆さんに応援していただいたおかげです。最後、あたたかい雰囲気の中で、皆さんがわーっと拍手してくださったことは一生忘れられません。最後のごあいさつのメルマガを1万人に配信すると、サーバーがパンク。読者や今までおつきあいのあった方々が、別れを惜しんで、たくさん駆けつけてくださいました。

あのときは、倒産を惜しむ声を各地で聞きました。会社を終えてから、どう過ごされていましたか?

しばらく何もする気が起こらないというか、何をしていいかわからなかったですね。悶々と家にいました。いろんな方が心配して電話やメールをくださったり、ご飯に誘ってくれたり、仕事探しを気にかけてくれたり。たくさん手を差し伸べていただいて、本当にありがたかったです。
1月、破産のニュースが流れるとすぐに、以前取材させていただいた在福岡米国領事館のサクライ首席領事から温かいお手紙をいただき、「独立記念日のパーティに今年は個人でご招待します」と連絡が来たとき、「アメリカはすごいなあ」とびっくりしました。夏のパーティまでに、私は何か決まっているだろうか、経済界の方たちがたくさんいらっしゃる中、どんな顔をして出席するのか不安にもなりました。4月になると、小郡市や県立高校から講演依頼が舞い込み、「私で大丈夫ですか?」と何度も確認しました。ありがたかったです。
それまでは会社に行けば社員がいた。「おはよう」「行ってきます」という声かけ、たわいないおしゃべり、それだけでも心が落ち着くんですよね。私ひとりでは何もできない自分にほとほと困りました。コワーキングに入居したのは、仕事のリズムをつかむのに効果的でした。


              立場は変わっても、社会が変わる原動力になりたい。

今はどんなお仕事をされているのでしょうか?

経営支援、自治体の女性活躍事業、講演・執筆などをしています。フロイデグループ代表の吉谷愛さんに声をかけて頂き、Web制作会社「フロイデギズモ」立ち上げに参画しました。吉谷さんは数年前にアヴァンティの「27歳の頃」でロールモデルとして取材させてもらいました。「20代のOLの頃からアヴァンティを読んで励まされた」そうです。倒産後、ものすごく残念がってくださり、「破産の仕方が品格がある。こんな人見たことがない」と言われました。倒産した私をなんとか活かす方法はないかと考えてくださったことと、吉谷さんがやりたいことが合致してのお話だったようです。

「編集に強いWeb制作事業」ってどんなものでしょう?

最初から決まっていたわけではありません。私のインタビュー力を活かして顧客のホームページに「経営者インタビュー」を入れることだけは早々に決まりました。少しずつ社員も増え、何度もミーティングを重ね、「パーソナルオフィシャルサイト」を事業の目玉としました。このサイトがそうで、私もお客さんです。これからフリーランスで仕事する人が増えます。自分の名前で世の中を渡っていくには、その人が際立つ必要があります。その人の人間性、魅力をインタビューで引き出すページがWeb上にあることで仕事が増えるはず。残念ながらコロナでうまくいかずIT部門での私の委託契約は終了しました。ただ、コミュニティFMでフロイデグループ提供の番組が始まり、パーソナリティをさせていただいているので、その仕事は継続です。

自治体の仕事や、個人でセミナーも始められましたね。

2019年度は、福岡県や沖縄県の女性リーダー育成事業でコーディネーターやアドバイザーとしてお仕事させていただきました。特に、沖縄県の「てぃるる塾」では、事業コーディネーターとして、立ち上げから関わり、半年間、月1回沖縄に出張しました。
また、ゲスト講師に私がインタビューする形式で、「天神キャリア塾」という「学びの場」を始めました。ゲストの話に刺激を受け、ディスカッションで深め、参加者同士で新たな出会いが生まれます。アヴァンティで使命感を持ってやってきたトークライブのような場を途絶えさせたくなくて、小さくても毎月やろうと決めたのです。「やりましょう」と応援してくださる元読者の方たちのおかげで実現できました。「女性がつながる場を作りたい」という変わらぬ思いを形にできて感謝しています。通常は40人くらいですが、8回目は東京大学名誉教授の上野千鶴子先生をお迎えし、パーティ付きでちょっと豪華に開催しました。150人近くお集りいただいたんですよ。さすがに人数が多いので、いつもの運営スタッフに加え元アヴァンティ社員にも手伝ってもらいました。とても楽しかったです。さあこれからもっと大きくしていこうという時に、3月からはコロナ感染拡大でお休み。さらに私のがん治療が重なり…。

大変でしたね。寛解されたと聞きました。これから講演や執筆もできますね。

ありがとうございます。男女共同参画や女性活躍関連はお話があれば少しずつ。起業体験がテーマの講演はもうないなと思っていたら、倒産話の講演依頼がありました。「アヴァンティはなぜつぶれたのか」というタイトルに元社員や元愛読者からは「悲しい」とメールが来たり。ただ、正直に赤裸々に話すので講演は参加者には好評だったようです。執筆は、「フクリパ」という福岡のWebメディアで月に1本、女性をテーマに書いています。

村山さんはいつでも立場が変わっても、思いや行動が一貫されていますね。

そうですね、「独身でも結婚していても、子どもがいてもいなくても、人それぞれにきらめく価値がある」と思っています。自分の可能性を発揮でき、仕事を楽しめたら幸せですよね。男女格差が大きい日本をなんとかしたいと思い続けて数十年。近年、女性活躍の大きなうねりで新しい時代がそこまで来ているのを感じます。家事や育児を女性だけがしいてたら絶対女性活躍なんて無理と言い続けてきましたが、それも少しずつ変化してきていますね。希望を胸に光に向かって、皆で社会を変えていきたいです。

いつお会いしても朗らかで、男女を問わず多くの人に愛されている村山さん。好きな言葉は「大丈夫、何とかなる」。小さい頃に、お母様がよく言われていたのだそう。情熱を傾けてきた「アヴァンティ」を終了するという辛い出来事を乗り越えられたのも、女性たちを応援し続けてきたのも、もしかしたら「大丈夫」という思いが原点にあるのかもしれない。25年ぶりに会社の枠を抜け、新たな道へと歩き出した村山さん。これからの活動にも大いに期待したい。(佐々木 恵美)

村山由香里

「リムリムラボ」代表 村山由香里

株式会社フロイデール執行役員。株式会社フロイデギズモ編集長。九州大学女子卒業生の会「松の実会」事務局長。
1993年、福岡で情報誌「アヴァンティ」を創刊。「働く女性を応援する」をコンセプトに、女性たちが生きる働く「今」を取材し、時代を息吹を伝えた。2019年事業終了。
2010年より5年間、あすばる館長として、経済界との連携や、次世代女性リーダー養成講座「ふくおか女性いきいき塾」の開催、ホームページやSNSで男女共同参画を発信するなど、先駆的な取り組みをした。現在は、講演、執筆活動に加え、IT企業で執行役員を務める。

インタビュアー

佐々木 恵美

フリーライター・エディター

福岡市出身。九州大学教育学部を卒業後、ロンドン・東京・福岡にて、女性誌や新聞、Web、報告書などの制作に携わる。特にインタビューが好きで、著名人をはじめ1000人以上を取材。

フォトグラファー

高巣 秀幸

写真家

北九州市出身。名古屋市で会社勤めをしながら独学で写真を学び、29歳で福岡市でフリーカメラマンとして独立。女性がよりきれいになる写真、「キレイに撮る、だけでなくキレイになる写真」がライフワーク。